町の電気屋さんが来てくれた。
昨年の暮れに画面が突然、
真っ暗になってしまったテレビを
見てもらうためだ。
大きな量販店ではなく、
昔ながらの町の電気屋さん。
最近では電化製品を
なんでも量販店で買うことが多い。
値段も安いし、いろいろ見て選べるし。
けれど不具合が起きたとき、
親身になってくれた記憶は
あまりない。
少し見ただけで、
「ああ、これはもうダメですね。
買い換えた方がいいです」
と言われたことが何度かある。
私の方も、
修理にかかる時間を
待たなければいけない不便さを思うと、
新しいものが翌日には届く便利さの方を
選んだりもする。
その度に、
何か早すぎる気がした。
壊れるのも。
見切るのも。
今日、来てくださった電気屋さんは、
鞄から見慣れない計器を取り出し、
黙っていくつかの箇所を調べた。
それは見るべきところを
ちゃんと知っている手つきだった。
無駄なことも言わない。
「メーカーに確認してみます」
すぐに結論を出さないところが
少し嬉しかった。
結果はきっと、
買い換えになるのだろう。
それでも、『確かめる』という時間を
ちゃんと通ってくれる。
そこに何か信頼感のようなものを感じた。
壊れた森の家のテレビは10年目。
東京の家のテレビは20年以上まだ使っている。
メーカーも違うし、個体差があるとは言え、
同じテレビでこんなにも違うものだろうか。
物の寿命なのか、
使い方のせいなのか、
それとも
時代なのか。
最近のものは、
壊れたら直すより
買い換えた方が安くて早いらしい。
便利、という言葉の裏で、
直すという習慣が静かに消えてゆく。
아마도,
森の家のテレビは新しくなる。
それはそれで悪いことではない。
하지만,
なんだろう…
壊れたのはテレビだけではないような、
そんな気がしている。
直せば使えるかもしれないものを
すぐに手放すこと。
待つことができずに
すぐに手に入る方を選ぶこと。
速さが正しいような空気感。
それらが当たり前になっていて、
気がつけば私も、
その流れの中にいる。
うまく言えないけれど、
胸のあたりに、
まだなんとなく小さなもやが残っている。